大島青松園へ
2023年12月27日 17時47分12月26日、西予市生活福祉部人権啓発課主催の「塔和子顕彰事業(大島青松園訪問事業)」に、人権委員や生徒会などの9名の生徒、3名の教員で参加しました。片道約2時間のバスと約30分の船を乗り継ぎ、目的地の大島青松園に到着しました。行きのバスの中では、自己紹介やこの研修の目標を一人ひとりが述べました。そして、大島青松園では、まず初めに社会交流会館でハンセン病やその歴史、大島青松園、入所者の生活など様々なことを教えていただき、理解を深めることができました。また、この施設では、入所から人生を終えるまでの一生をじかに感じることができました。特に、大島青松園は全国で唯一丸ごと療養所であって、島には入所者と職員のみしかおらず、船で島へ向かう時には片道切符を持ち、家族に迷惑をかけないように家族と縁を切って入所すること、また偽名を使っていたこと(骨壺にまで偽名を使っていたこと)、さらに葬儀をあげるために宗派が聞かれたり、検体のためにサインをさせられるなど、入所することは生きては帰れないなど、お話をいただき入所者や家族のことを思うと、胸に熱いものがこみ上げてきました。
昼食後は、大島会館でハンセン病回復者の常二さんに体験談をお話ししていただきました。常二さんは現在92歳で西条市出身、昭和17年に11歳で大島青松園に入所しました。「入所する時にはどのような気持ちだったのですか」と質問させていただくと、「小学校の検診で感染が発覚し、警察が自宅に(説得に)やってきた。その後母親が高松(大島青松園)に行くかと聞いてきて、汽車に乗れる、船に乗れるという楽しい気持ちで高松へ診察に行けると当初思っていた。しかし母親は泣いていた(どういうことか知っていたから)。そして、兄を見送る際に自然と涙がこぼれ落ちた」とおっしゃっていました。ここでこの療養所からは故郷に帰ることができないと自覚したのではと思いました。また「故郷に帰りたいという気持ちはなかったのですか」と質問させていただくと、「5年間帰れなかった、いや自分で帰らなかった」と言い直されました。「帰ったら嫌われる」という思いや家族に迷惑がかかるという思いから自ら帰らなかったということです。家族に会えない、家族に迷惑がかかる、少年時代の常二さんはどれだけつらい思いをしたのか計り知れません。そのような中でも、前を向いて強く生きてこられたことにも感動しました。ちなみに楽しみの一つに野球があったそうです。
様々な思いを胸に、その後、フィールドワークに出かけました。納骨堂には2,000名を超える多くの方々のお骨が納められており、その骨壺には偽名が使用されていると聞きました。また火葬場の近くには風の舞(モニュメント)がありました。以前は火葬する差には入所者が海岸で薪を使用し火葬していたとも聞きました。その風の舞(モニュメント)は「せめて死後の魂は風に乗って島を離れ、自由に解き放たれますように」という願いが込められているそうです。最後に、解剖台を目にし、大島青松園を離れました。帰りのバスでは、一人ひとりが研修の感想を述べました。実際に大島青松園を目にし、ハンセン病回復者の常二さんより体験談を話していただける貴重な機会となったと思います。来年度以降も引き続き参加するとともに、今回経験したことをみんなに伝えていきたいと思います。